まむちんって?

momchin

小河畑・まむちん・千鶴子

シンガーソングライター/作詞作曲/てばなしコミュニケーター®

オリジナルソングやJAZZなどを歌いながら、「てばなし®」を広める活動をしています。

1968年(胎児期w) 母のお腹の中で父のギター弾き語りを聴く
1970年 見よう見まねで手話を始める
1985年 高校の友人とビートルズのカバーバンドで演奏(当時ドラマー)
1986年 高校卒業と同時に就職。働きながらバンドを続ける
1988年 バンド活動を休止
1997年 障害者施設で働き始め、バンド活動を再開
1998年 演奏を続けながら、ヘルパーの資格を取得
1999年 独学で学んできた手話を深めるために(一瞬w)専門学校へ
2000年 結婚
2009年 てばなし®の個人レッスンを開始
2010年 ファーストアルバムを自費出版でリリース
2015年 てばなし®講座を開催
2015年 セカンドアルバムをおーらいレコードからリリース

音楽と私

今回こうして改めて振り返ってみると、
私にとって音楽って小さい頃から其処にあって、
何も音が鳴っていなくても(音が出せない場面など)
アタマの中で何がしかの曲が鳴っている…。
それが当たり前だと思っていました。

音に触れたことがないひとも居る。
それを知ったのは伝記『ヘレン・ケラー物語』でした。
とても驚いたしショックでした。

「でも、それは不幸なことではない…」
ということもそこには書かれていたと思うのですが、
こどもながらにそれが不思議で仕方ありませんでした。

【聴こえない方がいい音も聴こえてしまう】
そんな体験をしたとき、ヘレンの伝記のことを思い出したりもしました。

結婚した直後、パートナーに
「無音の方が落ちつく。音楽を聴くのは僕の居ないときに…」
と、言われたときもめちゃくちゃ驚きました。

音が無い暮らしの方が落ちつくひとも居る。
衝撃でした。

「彼の居ない間にしか音が出せない!」
と思うと、厳選して厳選してCDを選んでいる自分が面白かったです。

音楽と私.
哀しい時には哀しみ満載の曲を聴き、
嬉しい時には元気な曲を聴き、
恋がしたいときには恋の歌を聴き、

聴きたくない会話を塞ぎたいときや、
向き合いたくない課題を抱えているときは音楽にもたれ、
課題をひとつクリアしてはホッとして音楽に感謝してきました。

脳科学のことはよくわからないけれど、
音楽は私にとって大切な役割を担っています。

 

てばなし®と私

生まれてしばらくして私の両足の股関節が脱臼していることが判明。
左足は牽引で元に戻せましたが、右足は重篤な状況。
1歳半のときに手術をしました。

ほかの子より足腰が弱かったことを気にした母が
思い切って私をバレエに通わせてくれました。

なぜバレエだったのか?は、
また何かの機会におはなしするとして…。

そのバレエ教室に補聴器を付けた同い年の女の子が居たんです。
お迎えに来るお母さんとてのひらをヒラヒラさせているのを見て、
それが手話というものだということを知りました。

それを教えてくれたのは母でした。
母は若い頃、事務の仕事をしていて、その時に
聴こえない(聴こえづらい)同僚と友だちになり
見よう見まねで手話を使っていたのです。

いつか私も彼女とそんな風に手話で話したい。
そう思ってから、テレビで見かける手話通訳を観ては
「どうやらアレは〇〇を意味する手話らしい…」
とアタリをつけては少しずつ単語を覚えました。

小学生になった私は家計の事情でバレエを辞め彼女とは離れ離れ。
しかし3年後、なんと同じクラスになりました。

「これはチャンス!」
さっそく手話をやってみればいいものを、

「もっと上手くなってから…」
と、欲張った結果、彼女はあるとき転校してしまったのです。

「わー!ヘタでもいいからやっておけばよかった!」
と思ったときにはもう手遅れ。

「また何処かで会えたときに…」
に期待して、その後も細々と独学を続けました。

しかし、本やテレビでの速い手話に齧りつくにも限界があり
いつの日か手で話すことから遠ざかっていきました。

月日は経ち、縁あって20代半ばで福祉施設の介助職員になりました。
そこで見えなくて聴こえない男性の担当になったことがキッカケで
再び手話を学び直すことに…。

彼自身もそんなにバリバリ手話ができたわけではなかったこともあり、
いつしかその方と私だけがわかる手話を作って交流するようになりました。

彼の日々の生活に根付いたジェスチャーを元に
いろんなことを話すようになりました。

聴こえない方のために先人が創ってきた手話も素晴らしいけれど、
もっとも大切なのは【伝わること】・【伝わるまであきらめないこと】
なんじゃないかな。

と思い始めたのはこの頃からかもしれません。